今更ですが、「第45号週間少年ジャンプ」のブリーチ294話になかなか興味深い事が書かれていました。

ネリエルの台詞
ネリエル「私達は一度ヒトから獣になり、そして再びアランカルとして理性を取り戻した。理性を持つ者は、戦いに理由が必要なの。」
ノイトラ「理由ならあるさ。てめえが気に喰わねえ」
ネリエル「それは、理由じゃない。本能よ。あなたは獣よ。私はあなたを戦士として認めない。」

その獣に対して違うシーンで、
ネリエル「武器を担ぐのは威嚇行動よ。強く見られたければ、隠して歩きなさい。」

これは、なかなか重い台詞だと思います。

本能と理性。
本能で行動するのが獣。理性で行動するのがヒトという定義をしてしまっているんです。

間違いではないかもしれないし、獣には、理性がないのかもしれません。
しかし、ヒトも獣の1種であることに間違いはないわけで、最近、理性よりも本能で行動している人が増加傾向にあるとも言われています。
この本能で動く人のことを心理学の世界では触覚型と言うとか言わないとか。

最近、この本能と理性に関する、事件が起こりました。

あるYAHOO!ニュースによりますと、「ボクシングは、拳だけでぶつかり合う、本能を封じた理性のスポーツだ」と書いてありました。さらにその記事では、「しかし、反則の連続で、あげく投げる。本能そのものの試合になった」とかそんな雰囲気のことが書いていました。

そして、記者会見で威嚇する。

最近、ずっと感じていた、亀田に対するボクシングだろ?という違和感の正体は、この本能と理性に関するものだったようです。

YAHOO!ニュースを信じ、ブリーチを引用するならば、ボクシングは理性というヒトとしての定義を前提にされたスポーツであるといえます。

一方、よく比べられるK1は、新興のショーとして、野ボブサップが戦うわけです。
ショーなので、もちろん演出も行われ、その演出は、記者会見での威嚇行為も含まれているのだろうと思います。
つまり、実際の試合内容は議論しないとして、演出としての外側のK1と言うのは、ブリーチを引用するならば、野獣という獣が、本能により戦うショーである事がわかります。
つまり、そこに理性を求めない。人間味をあえて棄て、野性味あふれる試合をショーとして提供していると言うことが考えられます。

次に、スポーツというものについて考えてみると、スポーツと言えば運動会。
運動会の開会式でこんなことを言います。
「宣誓。僕達私達は、スポーツマンシップに則り、正々堂々戦うことを誓います。」

これは、本能と言うよりかは、理性の表れを改めて宣言していると考える事が妥当です。

すなわち、スポーツとは、理性を前提とたヒト的な行動であると考える事ができます。

と言うことは、あくまで演出として示されているK1はスポーツではなく、また、亀田の行っているボクシングもまた、同じようにスポーツではないのではないだろうかと言う事が解釈の1つとしてする事が出来るのではないかということがわかります。

こう考えてみると、今までの違和感がすっと解けて、良かったです。
さて、これからの格闘技はどこに向かっていくのでしょうか?
理性か?本能か?

ちなみに、いわいるヤンキーというのは、理性ではなく本能で生きているような描写をされる事が多く、その更生としてボクシングが似合うのは、その本能を封じた理性をヤンキーが好きな殴り合いから学ぶ事が出来るからなのだと思います。

コメント

skullsberry
猿滑骸骨
2007年10月18日20:26

海外のボクシングマッチの前哨戦で対戦する双方が自己をアピールしたり、にらみ合ったりするのは今のK1のそれと大差ないですよ。それをエグザジャレイトするとプロレスになるので、程度問題です。そこはあくまで個人の許された領域でやっていることです。そこで野獣をアピールするのはあくまで理性の管理下でやっていることです。それで見ている方も安心するのでしょう。

トミーさんはカシアスクレイ=モハメドアリのパフォーマンスを見たことがありますか?相手に対する挑発は今の亀田より凄かったですよ。しかも試合中は現役時代の野村監督よりひどい口撃を繰り出していました。しかし、アリはそういうパフォーマンスが許されたのです。あの時代だったし、彼は最も理性的な正義を背負っていたからです。それに本当に!強かったし。

しかし、今の亀田にはそういった背景もないし、強さもない。単なるフェイクのギミックなのです。

ボクシングが本能と理性の緊張関係の上に成立しているスポーツだというのは、達見です。今度、このお題で書きますので、適当に期待して下さい。

skullsberry
猿滑骸骨
2007年10月19日19:51

少年法の適用は未成年です。ウッカリしてツッコミにのってしまった(笑)。訂正です。